皇太后がチェ尚宮と出会ったのは、チェ尚宮が中学3年の時のこと。
北の小さな港町に公務で訪れた当時の皇后は、地元の中学校を視察した。

皇后陛下のご来訪を歓迎する会で、土地の伝統舞踊を踊る女生徒の中に一際美しく舞い踊る少女、それがチェ尚宮…──チェ・イェスルだった。
その名を皇后は、校内の至るところで目にすることになる。
試験成績優秀者の筆頭や、絵画コンクール金賞作品の作者名───


こんなときは皇后として、一列に並んだ舞い手の女生徒たちに声を掛けるのだ。

練習は大変でしたか?
苦労したのはどんなことですか?
部活はなにをしていますか?
勉強は楽しいですか?

「将来の夢は何ですか?」

ちょうどチェ尚宮、──イェスルの前で皇后はそう訊いた。
そう…──、訊いたのだ。

とても姿勢のいい娘だった。伏し目がちに直立不動のまま、イェスルは少しの逡巡の後に小さな口を開く。

「夢は、2つございます。ひとつは早く仕事に就いて家族の助けになること。もうひとつは、沢山本を読んで、一生勉強を続けられること…です」

一緒の列を成す少女たちから、嘲るように吹き出す声が漏れると、イェスルは余計に視線を下げた。

「…どちらも高い志です。持ち続ければ、きっと叶いますよ」

恐らくなみなみでない事情があるのだろう、そう感じた皇后は思わず手を取り、膝をまげてイェスルの瞳を優しくも凛々しく覗き込んだ。

聡明な瞳。
意志の強そうな顔立ちをしている。

「そなた、名は?」
「3年A組の、チェ・イェスルと申します」




─────────



「今日の日程はすべて終了でございます。これからソウルに戻ります」

同行の尚宮が告げ、皇后は頷きかけてそして、首を横に振った。 港へ寄りたい、と。



気になって校長に尋ねたのは、あのチェ・イェスルという少女のことだった。
聞けば、学年一成績優秀で、なにをやらせても人並み以上、品行方正な生徒だが、家庭が貧しく高校さえ進学を諦め就職を探しているという。
向学心が強く、可能性を沢山秘めているのに惜しいことですと校長も唇を噛み締めた。



「陛下、…こちらにございます」

皇后の命令を受け、イェスルの家を捜し当てた運転手が御用車を停めたのは、潮風に錆付いたトタンが半端に剥がれてばたばたとはためき、軒が腐りめりめりと無造作に落ちた、古く小さな家の前だった。

「皇后陛下…?」
「暫し待て」
「ですが…──」

心配顔の尚宮たちに構いもせず、皇后は御用車を降りた。
後続の護衛車に控えていた翊衛士たちも慌てて飛び出してくるのを、言葉もなく軽く右手を挙げて制すると、尚宮が諦めたように先回りをし、玄関の硝子扉をノックする。
サッシではない扉は、ガシャガシャと危なっかしい音を立ててこのいびつな状況を一層居心地悪いものにした。

「はーい」 そんな声とともに建て付けの悪い扉が開いて、出てきたイェスルの表情が、混乱に少し揺れる。
声も出ない驚きに、ただ固まるばかりで。

「チェ・イェスル。皇后が、そなたの夢を叶えたい」





─────────




「チェ尚宮オンニは喜びました?」
「いいえ。頑なに辞退したわ」

チェ尚宮の過去に、チェギョンは吸い込まれるように聞き入った。
決して自ら語ることのない、宮の外の顔。

「チェ尚宮の家は漁師だったそうだ。ところがある日荒れる海で漂流する男を父親が助け、数日家に泊め置いた。…──それが北のスパイとも知らずにな」
「えっ…!?」

軍事境界線添いの町。
父親は北のスパイを手引きしたと公安に疑われ、凄惨な取り調べを受けた。
疑いが解けても鄙びた田舎町の事、仲間だった漁師たちに植え付けた誤解と偏見を拭うことはできず、一家は村八分にされた。

「漁業というものは、仲間との協力が大切なものだ。村八分になっては生計は成り立たない」

その上、執拗な取り調べのひどさゆえに父親は体を壊し、2年と経たずにある日急死した。
代わって元々病弱だった母が海女をし、少しの金を稼いでは子供たちを養ってはいたがそれも日毎に難しくなったという。

「だったら、お義母さまのお申し出は最高だったはずですよね…」
「しかし、公安に疑いをかけられた家の娘が入宮などできぬと最初は言い張って…」

内命婦を取り纏める皇后として、この娘は新たな戦力になる…──聡明な皇后にはそれがすぐ解ったのだろう。

「恵政殿、…彼女は東宮妃の頃から外への公務は頑張っても、宮での尚宮や内人の管理は興味のない人で…新しい尚宮がまるで育たなかったのだ。だから、チェ尚宮たちより上の世代の至密尚宮や中殿尚宮が年増までぽっかりおらぬだろう?」

苦笑いの皇后。
宮を本当に動かし支えてきたのはこの人なのだとチェギョンは思う。

「優秀な次世代の尚宮候補がほしかった。貧しく苦労した娘は、多少の辛苦も堪え、入宮したことに感謝して一生を宮に捧げるだろう。恵政殿は良家の娘しか入宮を許可しなかったが、ゆえに辛いと逃げ出す内人ばかりだったのだ」

宮に上がれば、給金を賜り実家に送ってやることもできる。
地方の中卒女子には稼げ得ない金額だ。
そして、一生掛けて学び、宮に仕える。

誰よりもこのイェスルにこそ相応しいと皇后は思ったのだ。

「無実だったなら気に病むことはない。宮に来て家族を助け、精進して宮に仕えぬかと話し、漸く決意したのだ」

貧しい暮らしを送ったことも、父の死も母の病も、すべて公安のせいだと…──

「まだそのように恨みが消えずにいたのだな」
「でもジュノさんは…」
「公安の誰もが悪いわけではないのだと、あのチェ尚宮が判らぬはずもないのだが…傍にいることで冷静に考えられないのだろうか」

初めて垣間見るチェ尚宮の素性というものに、チェギョンはまだリアリティーを持って捉えることができずにいた。
10年経たなくては尚宮になれないなか、7年で尚宮昇格を果たした初めての逸材。自分を救ってくれた宮への忠誠に生きると決めたチェ尚宮の人生…──

宮に入れてよかったね、と美談として聞くことも、違う気がする。
ジュノを恨んでも、何も始まらないし終わりもしないなら、
がんじがらめのその気持ちは、夏の眩しい空の彼方に早く、解き放てればいいのにと。
チェギョンはそう心の中で呟いた。








2009.11.25 Wed l 美しい人 l コメント (3) l top


相変わらずのつわりと、夏の始まりを知らしめる暑さの中でチェギョンは妊娠17週目を迎えた。
どんなに吐き気や頭痛がチェギョンを辛くさせても、予定している分の講義にはなるべく出なくては進級に差し障りがでる。
あまり欠席が多ければ前期試験を受けられるかすら危うい。

持ち前のポジティブさと体力でなるべく明るく乗り切りたいと頑張りを重ねるチェギョンだった。



「こんな暑い日にはやはりさっぱりしたものが宜しいですね」

大きな窓から漸くと緑を縫ってきた爽やかな風が僅かに入り込む午後。
おやつは何がいいかと訊ねに来たパン女官に、

「うーん、それがねぇ。そうでもないのよ。マックフライポテトとか無性に食べたいのよねぇ」

とほほと苦笑いしつつチェギョンが答えた。

「あっ、聞いたことあります。マックポテトが食べたいと男の子なんだそうですよ」
「え〜っ、うそくさーいっ」
「本当です。あとは予定日ごろ焼き肉食べると陣痛が来るとか。りんごが食べたいと女の子とか。姉の妊娠中によくそんな話を聞きました」

真意の程は解らないが、とかくマックフライポテトが食べたくなる妊娠が多いものらしい。



「妃宮、駄目ですよ」

聞き慣れた、凛と響き渡る声。
颯爽と部屋へ現れたその足取りがまず目に入る。

「皇太后陛下っ!?」

慌てて立ち上がったのはチェギョンだけではない。
女官たちも雨のない突然の雷に打たれたように緊張で身を固くした。

「体調はどう?」

近頃は随分と丸い話し方をする。
温陽御用邸に移って久しいからか、孫ができる喜びからかは判りかねるが、洋装や下ろした髪もすっかり板に付いて、いくつも若くなったようにさえ見えるのだ。
先導してきたチェ尚宮が椅子を引き、そこに腰掛けながらチェギョンに向ける笑顔も溌剌として、聞けば王族会の夫人たちとテニスの帰りだとか。
懐妊が判ってからは、よく東宮殿を訪ねてくれる皇太后。束の間の来訪がチェギョンには随分慰めにも勇気にもなった。

「そろそろつわりも納まる頃でしょう?」
「そのはずなんですけど、ぜーんぜん良くならないんです〜」

下がり気味の眉を余計に下げてチェギョンは甘えるように皇太后を見た。

「お腹も出てきたというのに。…あまり母上を困らせてはなりませんよ」

そっとチェギョンの少し大きくなったお腹に手を当てて。
そんな仕草がやけにくすぐったくて、チェギョンがえへへと笑う。

「御子(みこ)のものをいくつか作ったの。ミトンにケープ、帽子やベスト…」

皇太后が取り出した包みは、白い毛糸で編まれた小さな衣類だった。

「お義母さま、この暑いのに?」
「だって、生まれるのは真冬でしょう?待ちきれなくて…産着を縫ってやりたかったが、太皇太后陛下がシンに縫ったものを大切に取っておかれて着せておやりと言われては、私の出る幕はない」

感謝と淋しさをない交ぜにしたような微笑みは正直だ。
どう言葉を返したらいいかを判らないまま、チェギョンは小さなミトンを両手に取り かわいい、 呟いてそっと唇を寄せた。

「まだ性別は判らないの?もうそろそろ判るのでしょう?どちらか判れば白以外も編めるのに」
「まだ…──。それに判っても訊かないでおこうかって、シンくんが…」

すまなそうに首を竦めたチェギョンに、 それもいいわね、 と皇太后が頷いた。

先日公務でシンが沖縄へ行った際に土産に購入した琉球硝子のグラス。
まだ安定期ではなく飛行機に搭れず、留守番だったチェギョンに選んだそれは、廃瓶を使い作られた厚くて気泡の多い硝子。
独特の丸みを帯びている。
弾けそうな爽やかさを透かすカプリブルーのグラスで、 冷たいレモネードが涼しげな氷の音をからんと立てた。

「最近チェ尚宮は少し痩せたようだが…」

バルコニーで薔薇の剪定をするチェ尚宮の背中を見やりながら首を傾げる皇太后に、チェギョンが深く頷き小さなため息をつく。

「今まで以上に頑張ってくれてるんです。腰が痛いって言えばずーっとさすってくれてるし、これも作ってくれたんです」

手首にはブレスレット。
安産に効果がある、石を集めたものだ。

流産を防ぐ琥珀。
安産石と言われている真珠、血玉石、月長石に赤瑪瑙。
妊娠中の不安を和らげ、バランスを整える白蝶貝に珊瑚、珪孔雀石。
すべてチェ尚宮がひとりで調べ、集め、祈りをこめて手ずから作ったという。

チェギョンとお腹の子にいいらしいと聞いたことは、どんなことも厭わずにしてくれた。
そのひたむきさが、心配になるほどに。
他のことは何も、目に入らないかのように。

「それなのにいまだに翊衛士のユ ジュノさんとは何かとすぐピリピリムードになるから、シンくんが呆れてます」

苦笑いで。
けれどチェ尚宮を案ずるがゆえの呟き。

「…確かその翊衛士、公安からの出向だったな?」

何かを思い当たる体(てい)で考え込んでいた皇太后は、茶菓房へと女官を従え向かう階下の細い背中を、窓越し、ため息混じりに見下ろしながら。

「チェ尚宮には、公安に恨みがあるから…」

皇太后は、彼女しか知り得ないチェ尚宮のことをぽつりぽつりと話しはじめた。










※ お知らせをいただきました。韓国って今も性別を先には教えてもらえない決まりなんだそうです。今後その方向で書きすすまさせていただきます。ありがとうございました〜♪

2009.11.24 Tue l 美しい人 l コメント (10) l top

こんにちは 連休なのをいいことに更新をサボってすみません。
たぶん明日朝までには1つ上げられますのでしばしお待ちを〜。

というわけで、お知らせ記事を別館に上げてありますので別館を知らないあなたもちょっと覗きに行っていただけたらな、と思います。
こちらに重複して書いてる時間がないのですみません。(もうじきパパと娘が帰ってくる〜っっ)

あ、あとですね、もうすぐ(来月中)にリアルシンチェを鍵つきにします。
これはFC2 の会員でなくても私からパスワードさえ聞けば入れるそうです。入れないと思って勘違いしてたんですけど、入れるってコトを先日コメントで教えていただきました。ありがとうございました。

実はねぇ、ちょっと前にリアルを書くことについて批判をいただいたんですよね。メールで。
姫のことを大好きだからゆえ(またはほかの誰かとのを願うゆえ)だとは思うんですが、ジフニとのそういう妄想はいやだ、って言う方もやっぱり当然のことながら居られる訳で。
なかなかスパイシーな内容だったので^^;実はけっこう凹んでた時期がありまして、私もリアルのリクエストをたくさんいただきながらも及び腰だったんですね。
うちなんてただの妄想創作でしかないのになぁ、なんて思いつつも。
やっぱり不快な思いをされた方がいらしたってコトでしょう。
まぁ、それだけリアルな感じを受けたんだといいほうに考えましょうか。
でも、鍵さえあればもうそういう方にご迷惑をかけずに書けますね。名前も出せるし(うふふ)。
同じ思いの人だけで楽しみましょう。


まぁ、またそれは追々。



というわけで、ほかのお知らせについてはYahoo別館へ、どうぞ〜♪




2009.11.23 Mon l 業務連絡 l コメント (32) l top


妃宮付き翊衛士の詰所、もうすでに女性翊衛士たちは帰宅し、宿直の翊衛士は仮眠室に控えている。
ジュノが女性翊衛士たちに配慮して誰より早く出仕し、帰り支度も皆が帰ってからにしていることならチェ尚宮も知っている。
シンの翊衛士たちのほうに加えてやるなり、またはジュノの部屋を用意すればいいものをと思うものの、新宮誕生に併せて東宮殿は至るところを改築中なため、融通が利かないのが現状である。

本当は話をするのも億劫なほど、チェ尚宮はジュノを毛嫌いしている。
数日前の「あんたレズか?」、あれが決定打と言えた。

詰所の扉は少し開いており、中の灯りとともに人の気配も洩れていてジュノの在室を報せていた。
ノックをし、反応を待つ。
返事はなくて、

「…──ユ翊衛士、お忘れ物です」

声を掛けた。
それすら長い廊下に響いて溶けて、後には無言(しじま)が広がるばかりで。
多少の怪訝さと苛立ちを感じながら、チェ尚宮がドアを開け、

「ユ翊衛士、居られないので…す、か……」

勢いよく発した科白は戸惑いに圧され、トーンを下げた。

着替えの途中だったのだろうか。
ジュノは上半身には何も纏わず、素肌を晒していた。無駄の一切ないその体つきや、裸の肌にだけ面食らった訳ではない。

目に飛び込んできたのは…──左肩から背中にかけて、あまりにも大きく残る傷痕を見たからだった。

ゆっくりと少しだけ、此方に向き直った左横顔。チェ尚宮を見留めると僅かに眉尾を上げる。

「何か──?」

冷たい声音に射竦められぬように、チェ尚宮は威勢を張った。

「何かって!忘れ物ですと声をかけたではありませんか!」
「…失礼。左耳は聞こえないもので、左側からの声はよく拾えないのです」

話しながらすとんと被るモノトーンのカットソー。
裸よりもそんなカジュアルな服にどぎまぎするのは、宮に暮らしすぎたからだろうか。

「どうして…」 つい無意識に訊いていた。
そんなチェ尚宮の科白をすぐには飲み込めず、そして理解をすると身仕度の手を再開しつつ

「去年オリンピックホールで無差別テロがあったでしょう。あの時、犯人が投げた手榴弾の盾になってね」

抑揚もなく。
チェ尚宮の表情を、確かめもせずに。

「片耳聞こえず、そんな大怪我をした身で妃宮さまをお守りできるのですか?」
「できますよ。この怪我でオレも漸く他のSPと同レベルになれたようだ」

自信過剰な事を言うものだ。
なのになんだろう。
この悲しい響きの余韻は。

「誰か偉い人を…庇って?」
「いや、…一般市民。子供だった。政治家なんてみんな私欲の固まりさ。なんでこんな奴?ってのを警護するより、市民を守る部署のほうが性に合ってた。けれど怪我のせいで配置換え。そして今度は妃宮さまだ。世界的にも、歴史的にも、テロリストが妃をそうそう簡単には殺さない。リスクと反発が大きすぎるし、皇族への畏敬の念はどうしてもゼロにはなりがたいからだ。危機管理が重要ではあるが、リアルな危険度は低い。オレにはお誂え向きな職務と言えるでしょう」

さも、今の与えられた仕事に不満のあるような物言いだった。
カットソーを着る際に乱れた髪を片手で無造作に崩す。

「翊衛士には、なりたくなかったと?」
「いえ?与えられた使命を全うするだけです」

これ忘れ物です、 チェ尚宮は思い出したように携帯電話を取り出した。

「あぁ、どうも…そこ、置いといてください」

言ったジュノの目線が示すテーブルの上へ、携帯電話を置いて帰ろうとチェ尚宮は思っていた。
思っていたのに、目に飛び込んできた、ノートパソコン。

内人たちの1日の行動が詳細に書き込まれている。
バックヤードでの会話も。

「ここの職員たちまで監視してるのですか」

一瞬でも、爆発からまさに身を挺し子供を守ったというジュノに心が緩んだことを後悔する。

― やっぱり公安の人間なんだわ…

「東宮職はだれひとり怪しい者などおりません。無駄で非礼なことはおやめください」
「どうして言い切れますか?例えば恵政殿の事件、あれだってテロリズムで、クーデターみたいなものだ。あなたの仲間も恵政殿付きになったばかりにその悪事に加担させられた。あなたはたまたま被害者側にいただけだ。あなたが恵政殿付きだったら?宮の主従関係は絶対でしょう?やはり言い付け通りにしたのではありませんか?」

微かに笑みさえ浮かべて畳み掛けるジュノに、置き掛けた携帯電話を再び握り強く投げ付けた。

「最低男。やっぱり人を疑ってしか見られないのね」
「え…──」

ジュノが驚いたのは、なじられたからではなかった。
その瞳が、涙で濡れていたから。
バタンと強くドアを閉め、チェ尚宮は呆気にとられるジュノを置き去りにした。




















2009.11.21 Sat l 美しい人 l コメント (6) l top


「ラッサンブレ!サリュ」


チェギョンがフェンシング練習室の扉を潜った時には、丁度最後の一戦が終わったところだった。

マスクを外したシンの顔に、髪に、汗が滴る。
見ればジュノも同様に額を一筋汗が流れ、肩で息をしていた。

握手を交わしたシンの会心の笑顔。つられたように、ジュノもふと、思わず微笑みを零す。

「確かに強いな。楽しかった。また付き合ってくれ」
「はい。私でよろしければ」

今日はもう下がっていいとシンが告げ、ジュノは一礼して出口へ向かう。
扉の前ではチェギョンがおどけた笑顔で手を振っているが、一瞥し目礼をしてもチェギョンに釣られて笑顔を見せることはない。チェギョンの背後に控えるチェ尚宮にも視線を送ることはせず、その場を後にした。

「シンくん、ジュノさんやっぱり強かった?」
「あぁ…まぁな」

確かにジュノの腕前はかなりのものだった。
しかし、シンはなんとなくジュノの身のこなしをぎこちなく感じ…──それは気のせいかと思い過ごすほど些細な感覚ではあったが──怪訝な違和感としてシンの胸に小さく残る。

レッスン着とプロテクターを脱ぐシンに渡そうと、チェギョンがキャビネットの上に置かれたタオルを取りにゆき、 あれ?、 小さな声を上げた。

「これって…ジュノさんの?」

タオルの下に置き忘れられた、黒い携帯電話。

「そうみたいだな。チェ尚宮、届けてやってくれないか?」

それは当然の流れで。
けれど誰もが微妙な胸騒ぎを隠しながら。

「…──畏まりました」

少し不安げなチェギョンの手からジュノの携帯電話を受け取るチェ尚宮の表情は、事もなげで

「お願いね。そしたらオンニももう下がっていいよ〜」

チェギョンは小さく手を振りその背中を見送った。

「大丈夫かな?」
「何が?」
「…オンニ、ジュノさんのこと嫌いみたいだから」
「いい大人なんだ。なんてことないだろ」

渡されたタオルで汗を拭き一息ついたシンは、心配顔のチェギョンを可笑しそうに見下ろすと、がしがしと頭を撫でて髪をくしゃくしゃにした。

「いい詩は詠めましたか?妃宮さま」
「ダメ。ムカムカして全然集中力がないの」

1日中宮殿で過ごした割にチェギョンの表情は疲れきっている。
それだけ体調が優れないのだろう。
解っても、代わってもやれないもどかしさを持て余しながらシンは、チェギョンをふんわりと抱き寄せた。

「狭い宮ではよけいに息がつまるだろう。広い世界で、深呼吸したら、すっきりするかもしれないけどな」
「あの写真みたいに?」

指差し見上げたのは、空の写真。フレームに収められもせず、ピンで壁に留められている。
きっと果てしなく広いだろうと想像できる、深く濃い空色。


「あれか?あれは姉上が外国から送ってきたんだ」

シンはそう言って腕をのばし、壁から剥がしてチェギョンに手渡した。
そういえば、届いたときには見せてやらずに意地悪をしたことがあったと思い出しながら。

「どこかな。アフリカ?南米かな?」

荒野をゆくヘミョンの姿を思い浮べるだけで眩しくて、チェギョンは羨ましさと憧れをまた義姉に抱くのだ。

‘大きな空は いつもあなたの背中にある’

ふと裏返せば、そんな走り書きが目に入る。
ヘミョンの言葉だろうか。

「大きな空は、いつもあなたの背中にある…」

声に出して読んでみる。
詩を詠むことも苦手な自分とは全く違う、ヘミョンの大きさ。
こんな素敵な言葉を紡ぎだせる女性(ひと)に私もなれたらいいのにと、自嘲気味に微笑んで。けれど

「大丈夫だよ、シンくん」
「…───?」
「宮にいたって、大きな空はいつも私の背中にあるのだっ」

おどけてシンを、見上げ笑った。

「オンニ、ジュノさんトコもう出たかな?」
「さぁな…あんまり険悪だとお前が気を遣うって尚宮が気付かないのが不思議だけどな。僕には」

ふと漏らした、それは冷静で、チェギョンを想うシンの本音だったかもしれない。


東宮殿の東宮職は、みんな家族だ…──チェギョンがいつも言うから、シンもいつしかそう思うようになった。
チェギョンがつらい思いをしながらも、かけがえない命を体内で守り育てているこの大切な日々を、どうか穏やかにと誰より願っていたのは、シンに他ならなかった。









2009.11.20 Fri l 美しい人 l コメント (6) l top